倉敷工、校舎の西 約400mの距離にある 野球部専用グランド。
通称 「第2グランド」 は、84年9月に完成した。野球好きの校長の意思が、野球部専用練習場を生むきっかけとなった。倉工グランドは、かつて 野球、サッカー、ラグビー部が一度に練習していた。打球が、サッカー部員の後頭部に直撃して、救急車で運ばれる事もあった。さらには、ファールボールがテニスコートに飛ぶこともあり、「危ないっす、危ないっす」 の声に、テニス部員は、頭をかかえてしゃがみ込む事も。こうした光景に眉をひそめたのが、77年4月に倉工に赴任した貝原輝明校長(当時)。大の野球好きだった。「貝原校長は、校長室にいなければ、大体グランドにいる野球好きだった。」 こう語るのは、次の福田憲治校長(2009年)。
校舎の周囲は、住宅地であり、拡張工事は不可能。新たな土地探しが始まった。
「地権者からは、『私の家は女の子ばかりで、今後は倉工にお世話になる気はない。土地は、
売るつもりはない。』という冷たい反応ばかりでした。(貝原校長の自書より)」
地主に頭を下げる一方、保護者や教職員が寄付金集めに奔走。計画から完成までに5年。
建設費 約5億円がかかった。
貝原校長 在職中の9年間は、甲子園とは無縁だったが、退職した年の86年、倉敷工は
夏の岡山大会を制し、18年ぶりの甲子園出場を果たす。球場(岡山県営球場)にいた貝原前校長は、駆け寄った、倉工ナインから 何度も何度も胴上げされた。そして、涙が止まらなかったという。「野球部が伸び伸びと思う存分練習できる専用の第2グランドを作ってやってよかった」(貝原校長の自書より)。06年 貝原校長は、81歳で他界。
『野球部を伸び伸び練習させてやりたい』 貝原校長(当時)の思いが叶った第2グランドだったのである。
忘れまじ、倉工第2グランドを作った校長 貝原輝明を。
つづく 随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参 考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)
協 力
小山 稔氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」
神土 秀樹氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」
和泉 利典氏 「元 倉敷工業高校野球部 監督」
中山 隆幸氏 「前 倉敷工業高校野球部 部長 監督」