春風爽快 キセキの春 3

1月 3, 2020

倉敷工、校舎の西 約400mの距離にある 野球部専用グランド。

通称 「第2グランド」 は、84年9月に完成した。野球好きの校長の意思が、野球部専用練習場を生むきっかけとなった。倉工グランドは、かつて 野球、サッカー、ラグビー部が一度に練習していた。打球が、サッカー部員の後頭部に直撃して、救急車で運ばれる事もあった。さらには、ファールボールがテニスコートに飛ぶこともあり、「危ないっす、危ないっす」 の声に、テニス部員は、頭をかかえてしゃがみ込む事も。こうした光景に眉をひそめたのが、77年4月に倉工に赴任した貝原輝明校長(当時)。大の野球好きだった。「貝原校長は、校長室にいなければ、大体グランドにいる野球好きだった。」 こう語るのは、次の福田憲治校長(2009年)。

校舎の周囲は、住宅地であり、拡張工事は不可能。新たな土地探しが始まった。

「地権者からは、『私の家は女の子ばかりで、今後は倉工にお世話になる気はない。土地は、

売るつもりはない。』という冷たい反応ばかりでした。(貝原校長の自書より)」

地主に頭を下げる一方、保護者や教職員が寄付金集めに奔走。計画から完成までに5年。

建設費 約5億円がかかった。

貝原校長 在職中の9年間は、甲子園とは無縁だったが、退職した年の86年、倉敷工は

夏の岡山大会を制し、18年ぶりの甲子園出場を果たす。球場(岡山県営球場)にいた貝原前校長は、駆け寄った、倉工ナインから 何度も何度も胴上げされた。そして、涙が止まらなかったという。「野球部が伸び伸びと思う存分練習できる専用の第2グランドを作ってやってよかった」(貝原校長の自書より)。06年 貝原校長は、81歳で他界。

『野球部を伸び伸び練習させてやりたい』 貝原校長(当時)の思いが叶った第2グランドだったのである。

忘れまじ、倉工第2グランドを作った校長 貝原輝明を。

つづく 随時掲載

お願い

本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞

毎日新聞

(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協 力

小山  稔氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」

神土 秀樹氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」

和泉 利典氏 「元 倉敷工業高校野球部 監督」

中山 隆幸氏 「前 倉敷工業高校野球部 部長 監督」

奇跡の大逆転5

4月 2, 2016

「朝起きて、新聞を見るとどの新聞にも、倉工が負けると出ているんです。8対2ぐらいですかね。
分が悪いと。それらの新聞を見て、試合はやってみないとわからんじゃろうが、と。野球は、強い方が必ず勝つとは限らないし。また、弱い方が負けるとも限らないし。それで、甲子園へ行けるか行けないかと言う最後の試合なんで、一発勝負すると面白いだろうなあと。その新聞記事に反発した様な感じでやりました。」と、語るのは成長著しい急造投手の永山。
実は、36年の倉工は、ある秘策を用意していたのである。その秘策とは、相手チームが予測出来ない事をやるんだ。と言うものである。そのために県外のチームとの練習試合で何回もテストを実施。ただし、中国地区のチームとは実施せずにいたのだ。いつやるか、どこでやるか。
それは「ここ本番で、1点のみと言う時に一発で決めるんだ。と選手と申し合わせていました。」と監督小沢の言葉にも気合いが入る。
昭和36年7月31日 鳥取県公設野球場 東中国大会決勝 対岡山東商
倉敷から、多くの応援団が鳥取へと向かった。試合は、倉敷工 永山、岡山東商 岡本の先発で好ゲームにはなったが、やや倉工が押し気味でもあった。
7回表、倉工の攻撃。二死(一死?)ランナー一塁、三塁のチャンスが来た。
「ここだ」 ベンチのナインもわかっていた。「ここでやるんだ。ここしかない。」自然と握りこぶしに力が入り、戦況を見つめるナイン。その時だ。小沢からサインが出た。
「行くぞ 今だ 行け 走れ」 「よっしゃあー」 見事に秘策が成功。その瞬間ナイン全員がガッツポーズをして、ベンチを飛び出した。また、三塁側倉工応援団も全員がガッツポーズをして湧き立った。その秘策とは、Wスチールだったのである。
小沢の奥深い戦術。先を見越した作戦。結局このWスチールが勝敗の決め手となり、3対1で勝利。春夏合わせて6回目の甲子園出場。2年ぶり3回目の夏の甲子園出場となったのである。松本が泣いた。全員が抱き合って泣いた。
「これで甲子園に行ける。森脇を連れて行く事ができる。」と。
外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだから、どうしても と言う気持ちが、東商さんより上回っていたんではないかと思います。」
主将の松本は、「全員が大舞台のマウンドへ、と言う思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と涙。
誰かが、松本に声を掛けた。「良かったなあ、松本」。
新聞には、「狂喜乱舞の倉工応援団」「東中国代表に倉敷工」「チームワークの勝利 小沢監督」と出た。舞台は整った。行くぞ夢舞台。大甲子園へ。
森脇と共に。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送     番組「夢 フィールド」

      OHK岡山放送   番組「旋風よふたたび」

      山陽新聞社         「灼熱の記憶」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

軌跡の大逆転

1月 20, 2016

伝説の夏がある。

勝敗を超えて今でも語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。

奇跡の大逆転劇となった、倉敷工業 対 報徳学園の試合は、今でも夏が来るたび話題に上がる。

36年の倉工は、岡山県の秋季大会と選抜大会を制しており、夏の大会も優勝候補の筆頭とされていた。また、岡山県や中国地区の多くの関係者から、「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、高い評価を受けていたのである。

エースは、34年の夏の甲子園、国体の大舞台を一年生で経験している、剛球左腕の森脇。また、打撃陣では核となる不動の4番で、長距離打者の鎌田らがいて、破壊力は群を抜いていた大型チームであった。この様な大型チームを作り上げたのは、のちに名将の名前を欲しいままにする、監督 小沢 馨。弱冠30歳の青年指揮官だった。

この様な、大型チームに突然のアクシデントが襲うとは、誰が予想できたであろうか。それは、バント練習中に起こったのだ。

                   -つづく - 随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂く事を、ご了承ください。

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

 

祝 第5回時空甲子園出場

3月 29, 2015

時空を超えてOBが集い、母校の名誉のために覇者を争う「第5回全国高校OB野球選手権大会」(通称 時空甲子園)に出場しています。(全国108校)岡山県からは、岡山東商、関西、倉敷工の3校が出場しました。

出場選手を紹介します。

エースは、4季連続甲子園出場。4試合を完封した、黄金の左腕 小山 稔

捕手は、阪神、阪急等で活躍した片岡新之助が座る。

内野手は、エースで4番打者。法政大で主将をつとめ、ベストナイン2回の居郷 肇が3番打者でサードを守る。現在、西武ライオンズの球団社長でもある。

また阪神の名スコアラーとして有名な 三宅 博がショートで1番を打つ。

伝説の夏があった。エースを故障で欠きながらもチームワークで甲子園出場を勝ち取った昭和36年の夏。対 報徳学園戦は、あまりにも有名であるが、球神は無情であった。その時の捕手、槌田 誠。「借りを作った。このままでは終われない」と。槌田は、立教大に進学し、東京六大学で3冠王となり、巨人軍D1位に。この槌田が4番に座る。

エースの故障。開幕戦で高熱を発しながらも、中京大中京に血を吐く死闘を制し(16-15)、強打の東海大相模に0対1で競り負けた、剛腕、兼光保明がライトに入る。兼光は、近鉄で打者に転向。D3位であった。

投手では、巨人軍で56勝を上げ、シーズン2桁勝利を4度マークした、安原 達佳が控える。川上監督が仲人をしたという。

倉工を18年ぶりに甲子園に導いて、今でも広島のスコアラーとしてチームを永く支えている水本勝巳

走行守の3拍子揃って「山陽路の核弾頭野郎」と言われ、近鉄でD4位の中藤義雄

甲子園で2勝上げ、現在、JFE西日本のエース、陶山大介日下大希三村延寛、そして、今春、阪神へD4位で入団した、守屋攻輝。この陶山、日下、三村、守屋で、中山 隆幸監督の教え子が脇を固めている。

さあ、あなたも、時空甲子園で検索してみて下さい。心の中で何かが残るかと思います。

時空甲子園→検索できます

(おいまつ会広報 三宅)

硬式野球部OB会 阪神タイガースドラフト指名の守屋君激励!

2月 22, 2015

硬式野球部OB会懇親会に出席させていただきました。
1月3日(土)硬式野球部OB会に先立ち、福田公園にて、OB会チーム対3年生チームの試合が開催されました。
スタンドには多くのOBや保護者、倉工ファンも観戦。四国独立リーグ、社会人野球、そして、大学野球で活躍している選手で固めている、OB会チームが珍プレー、好プレーある中、10対1での勝利でした。
夜は、OB会懇親会においまつ会代表として、日下会長をはじめ、木村、三宅の副会長が出席しました。
三宅OB会会長、楢原校長、沖島元校長に続き、日下会長が挨拶をしました。特に今回は、本校から社会人野球、ホンダ鈴鹿に進み、都市対抗に導いた 守屋功輝君が阪神タイガースからドラフト4位に指名され、入団が決定したことにより、激励会を兼ねた会でもありました。守屋君のチームメイトも多数駆けつけ、花束贈呈もあり、更には大きな笑顔や歓声が沸き上がり、あっという間の2時間でした。
尚、本校硬式野球部のホームページもご参照ください。

ラグビー部激励訪問

11月 29, 2014

11月8日(土)、ラグビー部の練習にお邪魔しました。
当日は、日下会長をはじめおいまつ会役員が練習を見学し選手を激励しました。

 

11月18日(水)昭和29年電気科卒 コスモス会

11月 29, 2014

倉工在学時に3年間クラス替えがなく、また、担任の先生も替わらなかったことから非常にクラスの結束が強く、卒業を機に、同窓会を発足し電気科の校舎の窓の外にコスモスが群生していたことからコスモス会の名前が付いたということです。
当時、倉工の周りは田畑があり、倉工から電電公社(NTT)ぐらいまでは、ほとんど家がなく、あぜ道を通り倉工へ通ったことを話されていました。現在は、当時の様子と全く異なり、初めは全く別のところ来た感じがすると話されていましたが、時間が経つにつれ、当時の様子が目に浮かんできて色々な思いに耽っていました。
電気科棟を見学され、現在の生徒はこんなにすばらしい施設で勉強ができて幸せだと話されていました。校長室で当時の三代 神崎校長先生の写真を懐かしく見られていました。当時を思い出しながら倉工の帽子を被って記念写真を撮影しました。遠くは、大分から車を運転して駆けつける強者のOBには、びっくりしました。

○正門にて記念撮影

○昭和29年卒電気科のみなさん(校長室にて)

○電気科実習室を見学

○おいまつ会館より校庭を眺める

11月15日(土)三井倉工会

11月 29, 2014

三井造船での倉工会で今年度役員改選があり、OB会員への新役員の紹介も兼ねて懇親会を開きました。
そのときのイベントで倉工に来校し、各科の施設見学会を行いました。昔の様子を懐かしむように和気藹々と話しながら見学されていました。
懇親会では、年齢の垣根のない会の様子を垣間見ることができ、終始和やかで和気藹々とした楽しい懇親会でした。
OBの方で新潟や大分からも参加されとおり、参加された方皆さんが口々に倉工卒というだけで大事にしていただき、仕事においても困っていたら手を貸していただくなどスムーズに進めることができたこと、また色々な面で陰となり日向となり助けていただいとことなど話されていました。倉工会の絆を感じることができました。

当日は、母校倉工を訪れ実習室などを見学しました。


挨拶をする日下会長と本部役員


三井造船支部のみなさん(おいまつ会事務局にて)

○実習室の見学

おいまつ会役員硬式野球部を激励!

9月 15, 2014

9月14日、会長、副会長をはじめ、おいまつ会役員が母校の部活動の練習を見学させていただきました。
第1弾は、硬式野球部です。当日は、非常に暑い日となりましたが、部員の熱気溢れる練習に役員一同感激しました。
近い将来、この部員達が甲子園の土を踏むことができるよう応援していきます。

校長先生をはじめ、監督、指導者の皆様、そして選手諸君、見学を受け入れていただきありがとうございました。
他の部活動訪問も順次計画していこうと思います。

おいまつ会「関西部会」春季ゴルフ会を開催

7月 6, 2014


おいまつ会「関西部会」春季ゴルフ会を開催

(4月21日(月曜日)兵庫県宝塚市 愛宕原ゴルフ倶楽部)

 

前日の天気予報は雨、憂鬱なゴルフ会が心配されましたが、当日雨の気配は無く、曇り空で高齢者には絶好のゴルフ日和、岡山、大阪、奈良、兵庫、京都

から、19名の倉工OBが参加して、おいまつ会「関西部会」第21回ゴルフ会を開催しました、往年のナイスショットの残像を消すことができない熟年

ゴルファーには反省の繰り返し、プレー後の懇親会でも更に反省、この反省を次回ゴルフ会で活かせるか?ご期待ください(ゴルフ会幹事楠本)

 

参加者(19名)

岡本茂生(26M) 茨木利一(28M)浅野好明(32M)松浦照男(32M)

小野時男(33M) 小西 実(33T)三上定男(33M)阿部 俊(33M)

難波順二郎(35M)井上雅弘(35M)田中純治(35M)浦上泰昌(35M)

山本八洲雄(36E)佐藤俊英(36E)内田博夫(36E)長谷川勝俊(38M)

楠本 剛38M) 丸谷邦松(41A)竹原充(46M) 

   

 

受賞者

順位賞

優勝:小西  2位:茨木 3位:丸谷

ドラコン賞

岡本・丸谷

NP賞

難波・浅野(2)・楠本

バーディ賞

浅野・小西・難波・井上・楠本